稲荷、深草を経て伏見へ
去年の年始の町並探検は初詣の稲荷大社から北へ上り七条の豊国神社までを歩いた。今年は南へ深草から藤森・伏見と足を進めて見ることにしよう。初詣でごった返す本町通を南へ駅前旧国鉄のランプ小屋を越え斜めに横切る踏み切りは本町通。こちらかもいくらかの人が歩いてくる。伏見稲荷への初詣は大半はJR奈良線と京阪本線で来るのが一番だか、一部この先には臨時の駐車場からの初詣客かもしれない。その踏み切りを渡らず山手の東へ折れる。車もほとんど通らない住宅街をいく。めざすのは「ぬりこべ地蔵」である。こんなに狭い通の住宅街とは思っていなかったので順路があっているか少々不安であったが、ちょうどそう思った地点に手作りの観光案内板が出てきた。グットタイミングのその標識はいかにも楽しげな町歩きをかもしだすような好感度満点の標識だ。こういうのに出会うとそれ自体がうれしい体験だ。その看板どおりのところに「ぬりこべ地蔵」あった。名前がなんとなく面白く以前より一度行きたいと思っていた。その昔四方を塗り込めた寝室で念持仏 を祀り、悪鬼を祓う風習から来た由来から名前がついた。小さな地蔵堂があるばかりだかこのコース中では立ち寄りたいポイントであろう。車も通れぬ道を抜けて程なくすると石峰寺の石碑がみえる。一段と盛り上がった山手へ坂道を登り竜宮作りの山門をくぐると本堂が建っていた。境内は黄檗宗のお寺らしい中国風である。裏庭には羅漢様がいらしゃるので興味あればのぞくのも楽しいだろう。どちらにせよこの辺りの寺はともにそんなに大きく有名な物は少ないがみななかなかの味わいがある。
その後コースは南へ西へ折れながら進むと自然と本町通へとでる。この辺りは緩やかな西開きの傾斜地で疎水より西側にある唯一の通が本町通になるので迷えばここまでくればよい。伏見は第十六師団が配された場所でこの辺りには沢山のその痕跡が残っている。聖母女学院の本館はかつての本部である。京都教育大学、龍谷大学などのキャンパスもその跡地である。また第一軍道、師団街道など通名にもその名を残している。面白いところでは軍人湯などという公衆浴場もあった。まだこの辺りには戦争当時の遺構などが残っている。府道の交差点を南へすぐ七瀬川にある橋が直違橋である。それをさらに南へ下がったところにあるのが藤森神社。端午の節句と花菖蒲の風習はこの神社から始まったものである。
墨染の交差点を今度は西へいこう。京阪墨染駅を西へ疎水を越えて墨染寺を過ぎたあたりまで来ると深草飯食町からの府道が見えるのでそちらを南へおりていくと撞木町にあたる。ここは元禄15年赤穂浪士の仇討ちの裏話で語られる。大石倉之助と浮橋太夫の遊興の地で遊郭跡でもあった現在ではその碑とストリップ小屋があった事ぐらいがわずかにその雰囲気を残す程度である。その交差点の東にあるのが疎水のインクライン跡である。このあたりがなんとなく伏見と深草を分ける結界があるようだ。この交差点より南側が伏見の中心地となるのである。
さてこの国道24号線の交差点を渡ると深草から伏見へと地域が変わったような気がする。最初の信号のある交差点を西に折れる。明壽院(みょうじゅいん)庚申堂の初庚申の案内出ていたのでそれを見てみようというわけだ。多少なりともこういうガイドを書く場合話題やスポットが欲しい物である。左へ廻って100m先で○○をみてそれから右をとり△△を通過してから□□へ行ったばかりでは面白くないからやはり何を感じる物や珍しいものいい。さて大いに期待をしてあたりをうろついたのだが見当たらない、長年の路地裏探検で各地を廻っているのでそういうのを見つけだすのは結構うまい方なのだが、今回は鼻が利かなかったようだ。まああまり執着心のある方ではないのであっさり諦めて先へ進む事にする。
琵琶湖疎水はインクライン跡を放水路で経て伏見の街中へ流れ込むと今までのような運河のような直線的風景ではなくどちらかいうと工場地帯の排水路のように街中をくねりながら流れる。名前を濠川と変わり一部は新高瀬川に分かれるので水量も少なくなる。とはいっても伏見にとってこの川は大変重要な意味がありかつて京都の内港として栄えた伏見港の重要な水域であった。上方からの物資がここ伏見港で下ろされここから疎水をへて京都街中へ運ばれた。その後鉄道開通によってその役割を譲り、伏見の町はその豊かな水と京大阪という大きな消費地をもつなどの利点を生かし酒造りの町として再び栄える事になる。そして今その酒造りも以前よりも勢いがなくなり幾つかの酒蔵はマンションへと変わっていったようだ。酒蔵に混じり大型のマンションが大分増えてきたように思う。大手町の商店街からヤナ町商店街を越えてたどり着いたのが山本家本店その先には鳥せい、月の蔵人など昔の酒蔵を改造した呑み所がある。
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