渋滞の東大路通(東山七条)養源院横
多分八坂を越えて東山三条辺りまで
こんな感じだろう


東山七条の交差点正面が智積院

さて新熊野神社を後に今熊野の商店街になっている東大路通を北へJR東海道線を過ぎると左手に見えてくるのが養源院右手が智積院である。今回のコースでは通に面している智積院に立ち寄ってみようお目当てはもちろん長谷川等伯の「楓図」と息子久蔵「桜図」(ともに国宝)だ。東斜面に広がる境内はかなり広い。まずは金堂でお参りをすませてから、ちょっと金堂横の智山派宗務庁に立ち寄ってみよう。ここは旧京都市立芸術大学であった建物だ。かつて沢山の芸重家の卵をそだてた学びやである。近代建築としてもなかなか見ごたえある綺麗な建物。
智積院は布教より学寮として発展してきた。今でも覚鑁の忌日報恩講では宗学上の論題を討論する智積院討論がおこなわれている。いった日は正月の参拝でちらほらぐらいの人出でいつもあまり観光や参拝者が一杯になることは少ないと雰囲気だ。広い境内は綺麗に整備され雰囲気も明るく公園のような広々して気持ちがいい。


金堂

智山派宗務庁



名勝庭園利休好み
 
本殿の垂幕(?)にあたる光と影が綺麗だ

拝観受付で拝観料を納めてから収蔵されている国宝障壁図と名勝がみることができる。
案内によるとさほど大きくない広さ。されどその広がり感と緻密な細部の作りこみ
がすばらしい庭園。たしかになんでも大きなものは大味になるのだが、ここの庭園はなかなか
みごとなできばえ。手前も大きな本殿の一部なのだが、草庵のように幽玄の境地を味わえる。
上質の空間。桂離宮の月波楼にもひけを取らないといえば最高のほめ言葉?であろうか。

長谷川等伯親子の楓図・桜図のといえば最高の国宝絵画である。近くで眺められるだけでも
ありがたい。作品保護のため照明が暗めになっているのだが、明るい自然光の元で見てみたい
ものだ。


智積院(箇条書き駒札)東山区東大路通七条東入東瓦町

●真言宗智山派総本山・山号は五百仏山・本尊は大日如来
●豊臣秀吉が長男鶴松(棄丸)の菩提を弔うため建てた祥雲寺が始まり
●徳川家康が紀州根来寺智積院玄有に土地をあたえ坊舎、講堂を建立
●長谷川等伯親子の楓図・桜図は国宝

さて智積院を後にしてその通一つ北にあるのが妙法院門跡。
ここは慈覚大師円仁の山門派の三門跡寺院(梶井門跡・青蓮院門跡)の一つ
として有名である。


庫裏は国宝に指定されいる。
大棟上には煙出しがみごと


妙法院外観。通(新日吉神社の女坂)をひとつはさんで
南側は智積院。東大路一つ西は京都国立博物館。

専売病院。妙法院の北側にありここ元々は妙法院の積翠苑という大庭園があった。この建物も昭和レトロな感じがナイス。
妙法院門跡は一般公開されていないので北の門から入っていったがそこから先は入ることができない。有名な庫裏の写真だけおさめてすごすごと後にする。反対側に見えるのが京都専売病院の昭和レトロな建物。このひとつ奥には1万平方メートルにも及ぶ積翠苑という大庭園がある。その様に土地も売却したのだかいまでも大変大きな境内をほこる妙法院だか。かつてはこんなものじゃなかった、後白河上皇の御持僧昌雲が祈祷の験により今日吉御所の地を与えられ現在の地に移転して、歴代門主も皇族出身者も多く大いに栄えた。ばさら大名佐々木道誉の『妙法院焼き討ち』や応仁の乱で荒廃した。秀吉が方広寺の大仏殿を建立するとき大仏経堂として再興され、寺領は1600石にもおよび、江戸時代には新日吉神社・三十三間堂・方広寺を管理した。だが、明治の神仏分離令で寺地は20分の1に削られた。

その他歴史的な事件では幕末の七卿落ちのスタート地点としても有名。現在でも三十三間堂はここの所管であることがパンフレットにも書かれている。『当院のおかえりには三十三間堂へお参りを』となっている。残念ながらきょうはこれから別コースを歩く予定なのでまたの日にあらためることにしよう。


ではその別ルートとはいかなるコースなのだろうか。東山七条の交差点をこんどは西へとる。まずは京都国立博物館の横を七条通にそって進む。三十三間堂のT字路にあるのが松原警察大仏前交番である。もちろんここで大仏といえば方広寺の大仏さんである。交番の角を廻れば京都国立博物館の正面玄関が見えてくる。寺院建築のなかには沢山の優れた山門があり国宝になっている門も多くあるが、近代建築以後についてはすくない、そのなかにあってこの博物館の正門はすばらしい。重要文化財に指定されている。もちろん設計は本館と同じく明治の建築家の重鎮片山東熊だ。これほどりっぱな門は他ではあまりみたことがない。それに近代建築以後は門の地位自身が低下してきたように思う。門や塀など自身が省略されたり、または簡単な建材で作られている場合がほとんどになってきた。その塀であるが現在の軽快なアルミ建材でできた物の対極にあるのがその先の豊国神社と方広寺に続く石垣である。豊臣秀吉の大仏殿の遺構である。たぶんこのサイズは大坂城の天守閣築城の石と同じクラスの物だろう。重機などない時代によくこれだけ大きな石を運び動かしすえつけたものだ。その技術力もさることながら、資金力、政治力の強大さはいかばかりのものであったのだろうか。

 
地上や地名から方広寺の大仏さんの名は消えたが交番名として平成の現在まで生き残っている

このみごとな石組みも方広寺の大仏殿の大きさを感じさせる

京都国立博物館『片山東熊』設計この広大な敷地もかつての方広寺の大仏殿の一部で妙法院の寺地の一部でもあったのだろう。


豊国神社の鳥居の正面の通は正面通といわれる。もちろん方広寺の大仏殿の正面である。よってここの鳥居の正面がもっとも由緒ただしい正面である
  豊国神社はとよくにじんじゃと読むのだが俗称はほうこくさんである。京都の神社や社寺は京言葉の特長でさんづけで呼ばれる場合がおおい北野天満宮が天神さん。東寺は正式名が『教王護国寺』で弘法さん。西本願寺がお西さんで東本願寺がお東さん。八坂神社は八坂さん・愛宕さんとなる。ちなみにそれらは生活に密着した親しみある神社、社寺でもある。食べ物でもおあげさん・おまめさん・おいもさん・あめちゃんなどなど。さてっ探検した日はまだ正月3日で初詣での参拝が多いのであるがちらほら程度、常ならほんとに静かな境内なのだろう。ここの祭神はもちろん豊臣秀吉で。慶長三年に秀吉の遺体を東山の阿弥陀が峰に葬り、翌年に社が創られた。

唐門は伏見城の遺構で国宝
国宝の唐門は伏見城の遺構。だいたい京都には伏見城の遺構というのが沢山ある。あちこちにあるので記憶と印象とがいいかげんに交錯してどうもあやしい。もちろんここはチャンと調べて書いているので間違いはないのだがどうやら二条城のものであるらしい。そうそうそう書いて気になってしらべて見ると御香宮の表門も伏見城の遺構である。
その他そんな感じであちこちにあるのがxxの血天井や龍の絵の天井や小堀遠州好みの庭などは沢山ある。どちらにしてもこの唐破風造りの唐門というのはなんとなく霊柩車を思い浮かべるのと、ちょっと成金的で下品な感じなのであまり好きではない。

豊国神社(箇条書き駒札)東山区大和大路正面茶屋町

●祭神は豊臣秀吉
●秀吉の遺体を東山の阿弥陀が峰に葬り広大な社殿がその山腹に創建された
●唐門は伏見城の遺構で国宝
●明治13年旧大仏殿南半分に復興された



豊国神社の地続きの北隣が方広寺だ。
歴史にもしxxであればxxだった。はご法度だが京の路地裏探検隊ではそれもありだ。
もしかつての方広寺の大仏殿が現存していれば京都観光はどうなっていたのだろう。
金閣・銀閣・清水と並ぶあるいはそれ以上で京都一の観光スポットであったのは間違いない。
寛政10年の焼失以後の絵図にも圧倒的な大きさで描かれているぐらいだ。
その存在感を想像してみるのも楽しい。
大仏殿は高さ48m・桁行81m・梁間50m。大仏は6丈3尺で(約20m)で奈良東大寺の大仏(5丈3尺)
より大きかった。



 
大仏開眼供養の直前、梵鐘の銘文の一部に
『国臣豊楽』と刻まれているのに徳川家康がいちゃもんをつけた。つまり豊臣が
家康の文字を真っ二つに切っているということだ。
その秋に大坂冬の陣が起こる。




その梵鐘の架かる釣鐘堂。参拝者がその 『国臣豊楽』を見て判りやすいように四角囲みがつけてあった。これがなければわからない。その囲みの部分を望遠レンズでパチリ。モニターで確認したのが左の写真。しっかりわかるでしょ。
方広寺(箇条書き駒札)

●天台宗
●石塁・石塔は国史跡・梵鐘(重要文化財)

 

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